地形が町の記憶を呼び覚ます 富久町の街並と自證院と小泉八雲 

まるさん食日記https://garadanikki.hatenablog.com/entry/20200530/1590836400 には、

富久町の街並の一部が周りの宅地と異なり変な方向を向いている原因について、古地図に基づき詳細に検討されています。

f:id:highupthesky:20201017102345p:plain

 f:id:garadanikki:20200527162727j:plain

結論として「市谷刑務所が斜めの敷地だったから現在の街並みも斜めの区画となっている」と推定し、「実はもっと古い地図が見たいんですけど、まだまだ調べがあまく見つかりませんでした。  江戸時代はここ、なんだったんだろう。」と結ばれています。

 

☆☆ 調べたこと:   では、なぜ市谷刑務所は斜めの敷地をもっていたのだろう?1.  衛星写真と地図の対比

まず、まるさん食日記に記載の明治時代の地図(A)Google Earthによる衛星からの俯瞰図(B)とを比較。

Aに緑色で描かれた領域がBでは影として対応し、この緑色領域が地形の高低差(崖)であることがわかります。

f:id:highupthesky:20201017102657p:plain

A                                                                          B

https://garadanikki.hatenablog.com/entry/20200530/1590836400  Google Earth

 

2.高低差はなぜできたか?

皆川典久 東京スリバチ地形散歩 (洋泉社2012年)には東京の凹凸地形について面白い知見が満載。

そのp75―85、四谷周辺の谷地形についての解説の中に、紅葉川(現在の靖国通)の谷頭の一つとして饅頭谷低地が挙げられています(図C)。靖国通り医大通りに挟まれた地域で、実地を見てもはっきり低地であることがわかります。

図Aでは医大通りからさらに北に谷が伸び、北端には池があることから、実際の低地帯は更に広かったと考えられます。 

f:id:highupthesky:20201017104525j:plain

C 皆川典久 東京スリバチ地形散歩 (洋泉社2012年)

f:id:highupthesky:20201017104621j:plain

  現地写真 

3.明治時代古地図の地形記述

さらに古い地図を調べました。新宿区教育委員会の編纂による「地図で見る新宿区の移り変わり」地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編(昭和59年)p184/185の実測東京全図 内務省地理局地誌課、明治11年6月()はこの地域が江戸城の外堀から続く水路またはその延長の低地が崖に囲まれた地形であることを示しています。黄色く塗られた広い敷地が自證院の領域でした。明治28年の東京実測図(同書p194/195)()ではこの地帯は警視庁用地と記載があります。いずれの図からもこの地域が広く複雑な凹凸地形であったことがわかりました。

f:id:highupthesky:20201017104739j:plain

  「地図で見る新宿区の移り変わり」 p184/185

f:id:highupthesky:20201017104921j:plain

E    「地図で見る新宿区の移り変わり」 p194/195

 

4. 自證院の変遷

新宿区教育委員会の編纂による「地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編(昭和59年)に添付の「牛込四ツ谷淀橋周辺江戸切り絵図天保14年F)から、自證院の敷地が広かったことが見て取れます。(地図は新宿歴史博物館で購入できます)

f:id:highupthesky:20201017105011j:plain

 「牛込四ツ谷淀橋周辺江戸切り絵図天保14年  「地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編   新宿区教育委員会

自證院のご住職のお話によると、江戸時代には自證院の寺域は現在よりもずっと広く、現在の靖国通りに面して山門があり、坂を上ったずっと上に本堂があり、寺域は現在の富久小学校などを含む崖下にまでひろがっていたそうです。

同寺で頂いた「自證院縁起と略歴」によると、尾張大納言徳川光友郷夫人の千代姫の生母ふりの局は三代将軍徳川家光の局の一人で法名自證院殿光山暁桂大姉と号し、当院に葬られるにあたり現在の市谷の地に壱万六百坪の地を賜って本堂が建立された とあります。

現在の東京地図の上にこの地域を当てはめてみたのが図Gです。黄色の線は現在の道路を図Aの道路に対応させたもの。青色は図Aの緑色の崖地に対応、赤色は現在の自證院、点線は江戸時代の自證院の伽藍配置図に基づき寺域を推定したもの。この推定範囲だけでは1万坪には遠く及ばず、この近辺の低地領域ほとんどを取り込む必要があります。

f:id:highupthesky:20201017112130j:plain

G  昭文社東京都23区シティマップル1999年版 53に加工

従って、

武蔵野台地に刻まれた紅葉川の浸食崖で囲まれた斜め形状の窪み地形がまず存在し、
これが
自證院の敷地として永く保存され、明治になってから警視庁用地になった

と考えられます。

江戸時代に谷地形に寺院が建てられ、その敷地が人口増大に伴って宅地化している例が多く見られます。

東京の街が地形の制約を受けながら発展して来た歴史の一端として、本例も興味が持たれます。

5.幕末から明治へ 小泉八雲との関わり

「自證院縁起と略歴」には明治維新によって徳川ゆかりの当寺は敷地の大部分を明治政府に没収されて苦難の時代を迎えた歴史が記されてあり激動の時代が思いやられます。

また、小泉八雲(ラフカディオヘルン)が自證院の門前に居を構え(成女学院敷地に石碑あり)、自證院の墓地の木立が気に入って散策していたが、木立が切られて小鳥たちも姿を消し、これを悲しんで住所を西大久保に移したことが新宿歴史博物館特別展「小泉八雲―放浪するゴースト」に展示されています。

当寺の住職が小泉八雲と親しく、八雲の葬儀が当院で執り行われたことが「自證院縁起と略歴」に記されています。

 

https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/-/article_383.html  自證院 『ウィキペディアWikipedia)』

https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E8%87%AA%E8%A8%BC%E9%99%A2  WikipediaWikipedia自証院