ストラビンスキー歿後50年 LPジャケット集 1


ストラビンスキーが亡くなったのが197146日、今年が没後50年にあたる。
ストラビンスキーが来日しオケを指揮したビデオが我が家に残っているぐらいだから、つい最近の事と思っている内に、早くも半世紀が経ってしまった。

 LPジャケットから彼の作品を振り返ってみることにしよう。

1.兵士の物語 ストラビンスキー自作自演LP

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CBS/SONY SOCM30

ストラビンスキー自作自演(指揮)のレア版である。
A面には兵士の物語、B面のカンタータ「結婚」はサミュエル・バーバーおよびアーロン・コープランドがピアノ演奏に入っている豪華版。

第一次世界大戦でスイスに移住したストラビンスキーは、1917年のロシヤ革命でロシヤ内の財産をすべて失い、また作品の出版社がドイツであったことから経済的に困窮した。何とか金を稼ごうと、スイス国内の巡業旅芸人一座を企画。その演目として作り出したのが「兵士の物語」であった。

楽器編成がバイオリン、コントラバスファゴットクラリネットコルネットトロンボーン、打楽器の7重奏と小さいのも事情を聞いてなるほど。

アンセルメ指揮で初演1918年(ローザンヌ)。評判は悪くはなかったが、結局巡業には至らなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%A3%AB%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E ウイキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC  ウイキペディア

2.STRAVINSKY 火の鳥

 

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小澤征爾火の鳥

RCA VCS-7099 STEREO
SEIJI OZAWA/BOSTON SYMPHONY;
 SUITE FROM ”THE FIREBIRD” & ”PETRUCHKA”
SEIJI OZAWA/CHICAGO SYMPHONY、”THE RITE OF SPRING”

ロシヤ革命で多数のロシヤ人が亡命し、パリに新しい芸術の開花をもたらした。

バレエリュスの興行主ディアギレフが管弦楽小曲「花火」を聴いて興味をもち、ストラビンスキーに作曲を依頼したのが「火の鳥」であり、1910年にオペラ座で初演されて好評を得た。
さらに1911年には「ペトルーシュカ」、1913年には「春の祭典」が上演されて、ストラビンスキーの三部作が完成した。

小澤征爾指揮、ボストン交響楽団およびシカゴ交響楽団による三部作の二枚組LP。
火の鳥」のピアノパートはMichael Tilson Thomas が演奏している。

 

二枚組で若き小澤の指揮がたっぷり楽しめる。
OZAWAがブザンソン指揮者コンクールで優勝した際、課題曲の5拍子と9拍子でしたっけ、難リズムの並列をきれいにこなし、聴衆の一人が立ち上がって「ブラボー」と喝采したのだが、後に知ったらそれが作曲者だったと、小沢は自伝「スクーター…」に書いている。
5/16,2/8拍子など複雑なリズムが入り乱れる「春の祭典」でも彼の指揮姿がまざまざと目にうかぶのです。

ジャケットはLorraine Fox(1929-1980)の作。1940年代には珍しかった女性イラストレータとして雑誌に活躍。
現在もオークションレコードに多数の作品が登場している。

3.「火の鳥」でジャケットがユニークなLPとして冨田勲「THE FIREBIRD」。

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RCA RVC-2001 STEREO

冨田勲シンセサイザー作品に取り組んだ初期の時代には日本でLPを出してくれる会社がなく、アメリカのRCAで出した「月の光」および「火の鳥」が大ヒットとなって、初めて日本にも受け入れられたことは有名である。その米国版LP.

ジャケットのイラストレーターは何と、手塚治虫 大先生であった。
本LPは高橋敏郎「LPジャケット美術館」100選の一枚に選ばれている。

4.STRAVINSKY 春の祭典 

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CBS SONY SOCL1046  BERNSTEIN/THE LONDON SYMPHONY ORCHESTRA      

ディアギレフが先進的な音楽家たちに作品を依頼してはどんどん上演していたことは前項でも書きましたが、この「春の祭典」は「火の鳥」とは異なりSTRAVINSKYが自分のアイデアで作曲し、DIAGHILEVに持ち込んだようです。
http://matuikom.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/index.html

春の祭典は多数の演奏があり、我が家にも何枚かの所蔵があるが、ジャケットで面白いのがこの一枚。
本LPも高橋敏郎「LPジャケット美術館」100選の一枚に選ばれている。

巨大なストラビンスキー神像の前でこれから春の祭典が始まろうとしている。
神官たちが生贄となる女性を囲んで行列は舞台に近づいてゆく。
前景の植物群、大きな青い蓮の花などアンリルソーの「夢」を思わせるが、横たわる女性の腹にたるみが見えるのは画家の風刺でしょうか。
このジャケットのイラストレーターはRICHARD HESS(1934-1996)。雑誌のカバーなどで著名な画家であるが、LPジャケットについての記録は見つけていない。
http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3992/is_200201/ai_n9082596

なお、ドビュッシーもディアギレフに依頼されて「JEUX」を上演した(1913年5月15日)ことがあります。 
内容はテニス少女の恋のさやあてという筋書き、それにつけたDEBUSSYの音楽が「牧神の午後」もどきというわけで、これはヒットしないのは当然。レコードも見つかりませんねえ。…で、完全に黙殺されてしまったのですが、そのまさに二週間後の1913年5月29日にSTRAVINSKYの「春の祭典」が上演されて大騒ぎとなったわけです。

http://matuikom.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/20100101-312f.html   
http://www.adcglobal.org/archive/hof/1991/?id=224 
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0CE1DA1631F93AA3575BC0A967

5.ストラビンスキーとピカソ

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ANGEL RECORDS 35143  
IGOR MARKEVICH /ORCHESTRA NATIONAL DE LA RADIODIFFUSION FRANCAISE

STRAVINSKYがディアギレフの依頼に応じて書き上げたバレエ音楽のひとつがPULCINELLA。
ペルゴレー ジのSINFONIAからの本歌取りというが、残念ながら原曲は聞いたことがない。1920年パリのシャンゼリゼ劇場で初演。
このジャケットの裏面にはIGOR STRAVINSKY BORN JUNE17, 1882    NOW LIVING HOLLYWOOD CALIFORNIAとありストラビンスキーの生きている頃のLPである。

 

ジャケットはPICASSOのデッサン(1918)。
この頃ピカソはディアギレフ、サティ等とベルエポック芸術運動の中心にあり、1917年には衣装から舞台背景までを担当して「パラード」を上演したばかり。
また、1918年7月にはオルガと結婚し、まともな肖像画を多数残した新古典主義の時期。
ピカソ肖像画には手を強調している物が多いが、このデッサンでもバイオリンおよびボウを握る手に力を入れたことが見て取れる。

いま気がついたが、STRAVINSKY とMARKEVICHはいずれも名前がIGORである。二人が居酒屋に並んで座ったら、お互いになんと呼び合っていたのだろうか。

なおピカソはストラビンスキーの肖像も描いている。この画でもごつい大きな両手が印象的。

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 PHCD157 STRAVINSKY PIANO WORKS   Anatoly Sheludyakov,piano

消えた十二社川を探索  20210425 

  西新宿の中央公園の西側に存在したといわれる十二社池を前回探索した。

現在の西新宿小学校あたりに水源があり、十二社通り沿いに流れて神田川に注ぐ水路があったと考えられる。 今回はその流路を探索した。

 

1. 熊野神社から現在の東電変電所敷地に沿って神田川に至る水路

 

911年の陸地測量部地図には熊野神社から北に伸び神田川まで直線的につながる水路断片が記載されている。角筈のあたりにもその延長とみられる水路断片が記載され、両者は暗渠でつながっているものと考えられる。 直線的な形状から、人工的に作った水路であることが推定される。   

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*1 1911

 

1935年の地図では神田川流路が真直ぐに変わり、十二社通が広くなって、上記水路が十二社通との交差点から先で曲線となり、現在の東電敷地横を通って神田川に注ぐよう、流路が変更されたことがわかる。   

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*1 1935年

 

1941年の地図では十二社通から神田川までの曲がった水路が消失して道路になっており、暗渠化が推定される。   

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*1 1941年

 

1999年の道路地図でこの辺りを拡大してみると、この道路が東電敷地に沿って神田川まで続いていて、その曲がった形状から水路を暗渠化したことを裏付ける。   

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*2 1999年

 

2021年現在、この地域はビル建設敷地となって工事中である。水路がどうなったかを現地調査した。

神田川の西側の遊歩道を淀橋から南に向かって歩いてみると、護岸壁に大きな排水口が開いている。

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神田川の南側はビル工事の目隠し塀で囲まれているが、通行人が東電と目隠し塀の切れ目に入ってゆくのを発見。 そちら側に回って見ると、ありました。自転車一台がやっと通れるほどの細い通路が伸びている。

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右側は東電の生垣、左側はビル工事目隠し塀に挟まれた細道は曲がっていて、昔の水路に相当することを示す。

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路面には暗渠の存在を示すマンホールのふたが列を作って伸びている。

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  細道の終端。十二社道の新宿スクエアタワー交差点につながっていました。昔の水路が現在まで残り、東京都の下水道となっているので流路上には工事物は建設できず、歩道として維持されていることが確かめられました。

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この交差点を北にちょっと歩いたところに石碑が立っています。 昔から当地の首長であり、当時東京府方面参事であった渡辺氏が昭和10年、十二社通の改修に用地の大半を寄付したことが記載され、上記の地図の変化と対応しています。

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2. もっと昔は十二社通が自然水路だったのでは?

十二社通はうねうねと曲がった経路をもち、GOOGLE EARTH上で図った標高も周辺に比べて低いことから、ずっと昔には十二社道が自然水路だったのではないかと推定される。 地形およびGOOGLE EARTH標高データから、その推定流路を1911年地図上に示した。   

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*1 1911年地図に加筆

 

この図では神田川の流路もくねくねと屈曲していて、昔は水害が多かったと考えられる。水路が神田川と接続する地点も現在の淀橋近傍に伸びた広い地域であったのではないだろうか。

現地に立ってみると、12社通から淀橋あたりの緑地を越えて、さらに低い地域が川下に伸び、栄橋あたりまで合流点がひろがっていたのではないかと考えられる。    

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淀橋東端から十二社通方面を望む           

 

淀橋東端から北北東の神田川下流方面に低い道路が続く

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道路は屈曲し昔の水路を思わせる 

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淀橋下流の栄橋あたりが標高24mで最低。合流点か? 

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淀橋の傍に建てられた江戸名所図会「淀橋水車」には橋が二つ(流路が二本)見えていることから、このあたりの低地を流れる水路は複数存在し、複雑な地形を作っていたことがわかる。   

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新宿区標識 引用文献 *1 新宿区教育委員会 地図で見る新宿の移り変わり 淀橋大久保編道路地図 引用文献 *2 昭文社シティマップル東京都23区道路地図1999年

消えた秣川を捜す 大久保通から神田川まで

新宿区の諏訪神社およびその別当寺であった玄国寺は広い諏訪通りに面し、これを境として現在の高田馬場一丁目の大部分と西早稲田二丁目の西半分北側一帯を含む地域は諏訪(谷)村と呼ばれていた。

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 玄国寺 銘板

諏訪神社の周辺は鬱蒼とした鎮守の森であり、諏訪森と呼ばれた。境内の弁天池を通るように秣川が縦断し、神田川に合流していた。(*2

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 江戸名所図会 巻の四 第十一冊 *1

 

 

地図で見る秣川の変遷

明治初期までは諏訪神社の西方に十数戸の集落が存在するだけの小さな農村で、諏訪神社/玄国寺のすぐ西側を流れていた秣川流域に水田、残りに畑地が広がっていた。(*3
江戸時代の大久保村絵図(*4)には上部の田畑(現在の戸山公園)の中をうねる川が描かれていて、御成橋(現存せず)および水門があったことがわかる。

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 江戸時代の大久保村絵図*3

明治28年の測量図には大久保地域、陸軍省用地、および諏訪通周辺の川筋が明示されている。

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            測量地図 明治28年(*3)

また、大正6年の測量図には射撃場(現在の戸山公園)内および諏訪通りから北の田園地帯の流路が表示されているが、都市化が進んだ大久保地内には川筋は記載されておらず、流路の一部には民家が立ち並んでいる。
さらに、大正11年の測量図ではコンクリート製の射撃場が出現し、諏訪通以北も都市化が進んで、川の流路は完全に消え去っている。

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測量図(拡大) 大正6年 (*3)

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測量図 大正11年(*3)

 

消えた川筋を追って歩いてみた

秣川は現在は消失してしまいその姿を見ることはできない。
しかし、GoogleEarthで詳細に標高を調べると、諏訪通りに面した玄国寺西側の細道の標高が確かに周辺に比べて低く、現在は消失した秣川に相当することが確かめられた。
この道を諏訪通りから北にたどると、早稲田通りを横ぎって神田川に到達する。
さらに、諏訪通りから南を見ると、戸山公園を越えて大久保通まで、うねった道筋が特徴的な細道が伸びていて、GoogleEarth標高データおよび測量図をあわせてこれが秣川の上流部と推定される。

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  GoogleEarth 黄色が推定される秣川の流路

 

消えた川筋を追って秣川流路の踏破を試みた。大久保通りからスタートし、北に進む。

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GoogllEarth 大久保町内のうねり道(黄色い部分)

大久保通りのルーテル教会向いの駐車場がこのあたりの最低点で、上記うねり道の入口である。

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GooglEarthではこの道の標高は31~32mで平坦なように見えるが、実際に歩いてみると確かに道の両側より路面が低くなっていて、浅い川が流れるとすればこの道筋である。

細道に面して夫婦木神社の鳥居。その奥の鉄製の非常階段(?)を上り、左に折れて民家の二階がお宮さんになっている。我々より先に若い夫婦がお参りしている。狭いので先客が去ってようやく賽銭箱の前に立つことができる。

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大久保北公園。路面との高低差は1m程度。

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GooglEarthの低地トレースはこのあたりからうねって隣の道に移り、さらにちょっと進むとまたうねって元の道筋に戻る。民家が続いて一部は立ち入りはできないが、その境界が曲がった柵で仕切られ、消えた流路の位置を示しているようだ。

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海城高校への道を横ぎって戸山公園に入る。その先は広い低地が広がっているので流路はいろいろな経路が可能と思われる。
戸山公園と早稲田大学の間の道がこの辺りでは最も低い。

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GOOGL EARTH 戸山公園と早稲田大学敷地

射撃場の建物が完成した時点で川が消失していることから考えて、昔の流路はもっと東よりの、現在の早稲田大学敷地内にあったとも考えられる。

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広い公園のむこうには高層ビル、週末を楽しむ家族連れ。田園地帯であった昔がしのばれる。

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戸山公園の北には諏訪通り。この道は山手線と明治通りの間が大きく窪んだ坂道からなり、その最低部がに面して玄国寺が位置する。寺歴の銘板には、このあたりが諏訪谷村と称したと記載がある。 

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これと隣接して諏訪神社。 玄国寺はかつて諏訪神社別当寺であった。

 

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諏訪神社裏の諏訪森公園から下って玄国寺横の道に入り、北に進む。 道の西側はずっと上り坂。

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進むにつれて道の左側はどんどん道路より高くなり、古い擁壁が続く。かなりの段差だ。

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道路の左側の建物から道路に出るには階段。車いすなどは苦労するかも。

 

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諏訪公園。もう少し歩くと早稲田通。

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早稲田通りを横切ってさらに進むと下り勾配が急になり、神田川遊歩道に到達。
ここが昔の秣川の終点である。

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神田川の上流を見わたすと、山手線がずっと高い位置で走っているのが見える。この周辺、早稲田通から新目白通までの地域は新宿大斜面の終端低地にあたり、昔は水害に悩まされた。

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何はともあれ、秣川流路の踏破を達成!

 

幻の『諏訪谷』

地名『諏訪谷村』に相当する『諏訪谷』を捜したが、大久保地内には相当する地名は見当たらない。

下落合の聖母病院から西に下る谷戸が諏訪谷と呼ばれている(*4)が、ちょっと遠く、関係はなさそうだ。

本稿と同じルートを歩いた先人の意見(*5)では上流を秣川、下流を馬尿川としている。

戸山公園が陸軍の用地であったことから、馬も沢山いたはずで、軍用語の「糧秣」、排水によりこれらの名前が明治以降につけられたことが想像される。

でも、さらに昔、この地域が田園地帯であったころには、この川が諏訪神社の傍にある谷、『諏訪谷』とも呼ばれていたのではないだろうか。

 

話は変わるが、アニメ映画「千と千尋」では、汚染されたどぶ川の神が廃棄物を洗い流して輝きを取り戻す場面、および千尋と一緒に魔女と戦う白龍が市街化に伴って消滅し居場所を失くした川の神であることが明らかになる場面など、都市化に伴う河川の受難への風刺が込められていた。

美しい諏訪谷が復活することを夢見て今回の探訪を終わりたい。

 

*1 歴史散歩 江戸名所図会 巻之四 第十一冊 (saloon.jp) 
*2 諏訪町 (新宿区) - Wikipedia

*3 地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋大久保編(新宿区教育委員会
*4 佐伯の諏訪谷は急速に宅地化された。:落合学(落合道人 Ochiai-Dojin):SSブログ (ss-blog.jp)

*5 【暗渠散歩】馬尿川を歩いてみた【新宿区新大久保】秣川 馬屎川 (sub.jp)

新宿探検 十二社池を捜す 20210116

古いDVDを見ていたらブラタモリの新宿版を発見。
新宿中央公園のすぐ隣に広い池があり、観光地だったという。

古地図を持って探検に出かけた。

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 地図で見る新宿区の移り変わり 新宿区教育委員会編 昭和10年淀橋地図 画面上が西方向

淀橋浄水場は、現在は都庁を含む高層ビル群からなる新都心エリアに変わっている。

その西の六櫻社は後の小西六の工場敷地であり、現在は新宿中央公園の一部。

その西の熊野神社(十二社)から十二社通りを挟んで長く伸びる池が本日の目的地。

 

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昭文社シティマップル東京23区から;画面上が西方向

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熊野神社前交差点から西に入り、最初の横道を上り、微高台(西高台と仮に命名)上の住宅街を南に向けてどんどん歩く。
十二社通りに向けては下り坂であり、その向こうの熊野神社の本殿がほぼこちら(西高台)と同じ高さに見える。
つまり、十二社通りを含む低い土地が中央公園と西高台の間に伸びていることが確かめられた。

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十二社通りに下りて角筈交差点まで歩き、地図を広げる。
古地図と現存の道筋が対応する(昔の道筋が現在も残っている)良い例として、
現在のセントビラ永谷から入った横丁の屈曲点が古地図の十二社池の南端に相当する。

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ここから池端道路と思われる小道(A)を北方向にどんどん歩いてみる。

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道の西側は登り坂であり、この道が池面に近いことを裏付ける。

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ほぼ終端近くで、ありました。ブラタモリに登場した福助そば屋さん。
番組では店のすぐ裏に池があったそうだ。よって、この道Aが池の西端、十二社道が池の東端ということになる。

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もう一つの探し物、タモリが池まで歩いて下った階段道がなかなか見つからない。
諦めて帰りかけたその時、パパが大声をあげた。やっとみつかりました。細くて折れ曲がった階段道。

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階段の上から見ると池面までは結構な高度差。なるほど。記念写真。

思ったよりずっと小さいのでちょっとがっかりしたけど、ブラタモ追跡のウオーキングは無事に目的を達成したのであります。

1万歩。ハイ、お疲れ様。

*******

帰宅後、Google Earthで同地区の標高をチエック。

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 GoogleEarth

十二社道からA道のあたりは標高29~32mであり、これに比べて中央公園は標高36~41m、西高台は37~45mと高い。
標高の低い地域は古地図の池の南端を超えてさらに伸びていて、西新宿小学校まで広がっている。

そういえば甲州街道と山手通の交差点あたりは昔の水源地であり、春の小川の作曲された宇田川もこのあたりが水源である。
そう考えて地図を眺めなおすと、十二社通が直線ではなく曲線であるのも昔の川の存在を示唆する。
十二社通りの曲線を北にちょっと伸ばすと神田川に到達する。 なるほど。
武蔵野台地の伏流水が山手通のあたりで地表に出て水源となり、神田川に注いでいた昔の新宿が想像される。

 

 

https://joun.blog.ss-blog.jp/2010-12-23
http://uzo800.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
https://tokyodeep.info/post_770/
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12165853834.html
https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/kumanojuniso/

 

AN OLD FASHIONED CHRISTMAS カレンカーペンター生誕70年

カーペンターズの歌声が世界中に満ちた時代は今からちょうど50年前、1970年に始まった。
下積時代にハーブアルパートに見出され、最初に出したアルバムOFFERINGはチャートで20位とふるわなかったが、続いて出したバートバカラックの曲CLOSE TO YOUがチャート1位を4週間保持し、グラミー賞に輝いたのがCARPENTARSの地位を確立したのである。
以後多数のヒットが続き、カーペンターズ時代を作ったが、カレンの死亡により終わりを迎えた。

カレンの死後、その未発表の録音とリチャードによる新しいインスツルメンタルを併せてアルバムAN OLD FASHIONED CHRISTMASが1984年にリリースされた。

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A&MAMP-28109


懐かしいカレンの歌声を聴くことができるが、チャートは低位に終わった。既に大衆の好みはディスコ音楽など新しいものに移り、カーペンターズの古き良き時代を思わせる歌声の時代は終わっていたのである。

カレンが生まれたのは1950年3月2日。今年はカレンの生誕70年にあたる。

地形が町の記憶を呼び覚ます 富久町の街並と自證院と小泉八雲 

まるさん食日記https://garadanikki.hatenablog.com/entry/20200530/1590836400 には、

富久町の街並の一部が周りの宅地と異なり変な方向を向いている原因について、古地図に基づき詳細に検討されています。

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結論として「市谷刑務所が斜めの敷地だったから現在の街並みも斜めの区画となっている」と推定し、「実はもっと古い地図が見たいんですけど、まだまだ調べがあまく見つかりませんでした。  江戸時代はここ、なんだったんだろう。」と結ばれています。

 

☆☆ 調べたこと:   では、なぜ市谷刑務所は斜めの敷地をもっていたのだろう?1.  衛星写真と地図の対比

まず、まるさん食日記に記載の明治時代の地図(A)Google Earthによる衛星からの俯瞰図(B)とを比較。

Aに緑色で描かれた領域がBでは影として対応し、この緑色領域が地形の高低差(崖)であることがわかります。

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A                                                                          B

https://garadanikki.hatenablog.com/entry/20200530/1590836400  Google Earth

 

2.高低差はなぜできたか?

皆川典久 東京スリバチ地形散歩 (洋泉社2012年)には東京の凹凸地形について面白い知見が満載。

そのp75―85、四谷周辺の谷地形についての解説の中に、紅葉川(現在の靖国通)の谷頭の一つとして饅頭谷低地が挙げられています(図C)。靖国通り医大通りに挟まれた地域で、実地を見てもはっきり低地であることがわかります。

図Aでは医大通りからさらに北に谷が伸び、北端には池があることから、実際の低地帯は更に広かったと考えられます。 

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C 皆川典久 東京スリバチ地形散歩 (洋泉社2012年)

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  現地写真 

3.明治時代古地図の地形記述

さらに古い地図を調べました。新宿区教育委員会の編纂による「地図で見る新宿区の移り変わり」地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編(昭和59年)p184/185の実測東京全図 内務省地理局地誌課、明治11年6月()はこの地域が江戸城の外堀から続く水路またはその延長の低地が崖に囲まれた地形であることを示しています。黄色く塗られた広い敷地が自證院の領域でした。明治28年の東京実測図(同書p194/195)()ではこの地帯は警視庁用地と記載があります。いずれの図からもこの地域が広く複雑な凹凸地形であったことがわかりました。

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  「地図で見る新宿区の移り変わり」 p184/185

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E    「地図で見る新宿区の移り変わり」 p194/195

 

4. 自證院の変遷

新宿区教育委員会の編纂による「地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編(昭和59年)に添付の「牛込四ツ谷淀橋周辺江戸切り絵図天保14年F)から、自證院の敷地が広かったことが見て取れます。(地図は新宿歴史博物館で購入できます)

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 「牛込四ツ谷淀橋周辺江戸切り絵図天保14年  「地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編   新宿区教育委員会

自證院のご住職のお話によると、江戸時代には自證院の寺域は現在よりもずっと広く、現在の靖国通りに面して山門があり、坂を上ったずっと上に本堂があり、寺域は現在の富久小学校などを含む崖下にまでひろがっていたそうです。

同寺で頂いた「自證院縁起と略歴」によると、尾張大納言徳川光友郷夫人の千代姫の生母ふりの局は三代将軍徳川家光の局の一人で法名自證院殿光山暁桂大姉と号し、当院に葬られるにあたり現在の市谷の地に壱万六百坪の地を賜って本堂が建立された とあります。

現在の東京地図の上にこの地域を当てはめてみたのが図Gです。黄色の線は現在の道路を図Aの道路に対応させたもの。青色は図Aの緑色の崖地に対応、赤色は現在の自證院、点線は江戸時代の自證院の伽藍配置図に基づき寺域を推定したもの。この推定範囲だけでは1万坪には遠く及ばず、この近辺の低地領域ほとんどを取り込む必要があります。

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G  昭文社東京都23区シティマップル1999年版 53に加工

従って、

武蔵野台地に刻まれた紅葉川の浸食崖で囲まれた斜め形状の窪み地形がまず存在し、
これが
自證院の敷地として永く保存され、明治になってから警視庁用地になった

と考えられます。

江戸時代に谷地形に寺院が建てられ、その敷地が人口増大に伴って宅地化している例が多く見られます。

東京の街が地形の制約を受けながら発展して来た歴史の一端として、本例も興味が持たれます。

5.幕末から明治へ 小泉八雲との関わり

「自證院縁起と略歴」には明治維新によって徳川ゆかりの当寺は敷地の大部分を明治政府に没収されて苦難の時代を迎えた歴史が記されてあり激動の時代が思いやられます。

また、小泉八雲(ラフカディオヘルン)が自證院の門前に居を構え(成女学院敷地に石碑あり)、自證院の墓地の木立が気に入って散策していたが、木立が切られて小鳥たちも姿を消し、これを悲しんで住所を西大久保に移したことが新宿歴史博物館特別展「小泉八雲―放浪するゴースト」に展示されています。

当寺の住職が小泉八雲と親しく、八雲の葬儀が当院で執り行われたことが「自證院縁起と略歴」に記されています。

 

https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/-/article_383.html  自證院 『ウィキペディアWikipedia)』

https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E8%87%AA%E8%A8%BC%E9%99%A2  WikipediaWikipedia自証院